宮城紀行

2018.02.03-4宮城紀行(全その6)
◾︎その1
・プロローグ

3.11震災当時の自分を振り返るところから。
東京の設計事務所に勤めていた私は東京本社事務所10Fにいた。
住まいが関東から離れたことのない私にとって、揺れの激しさは、今まで体感した中で、やはり最も激しかった。
震災直後から職場ではボランティア部(通称ボラ部)が有志で立ち上がる。
私も何か協力できることはないかとボラ部に手を挙げた。
が、当時、仕事の忙しさから体調を崩していて、思うように体が動かない日々を過ごしていた。
現地に行きたい気持ちも少なからずあったが、行かなかった。
その後悔の念が今回の行動にもつながっている。
ボラ部では休日や夜など仕事の合間に集まり、いくつかの班に分かれて行動していた。
我々の班では大きな成果は出せなかったが、別の班では「逃げ地図」という高台のレベルが読み取れる地図が考え出された。
今でもブラッシュアップされながら、自治体でも採用されながら、各地に広まっているようです。

昨年2017年春、越谷チャレンジ塾を知人から紹介された。
越谷チャレンジ塾とは、何かを始めたいが、二の足を踏んでいる方を対象に、0から1に進めるステップを教えてくださる塾。
塾長は尾野寛明さん。
ちょうど農業の研修が2018年春に終了する予定(実際には2017年8月に独立に至った)だったこともあり、前に進むヒントを掴めればと思い、入塾した。
月に一度にゲスト講師を呼んで、講演を聞き、ワークショップをしながら、自分の考えをマイプランに落とし込んでいく。

そして去る2017年11月23日に越谷チャレンジ塾の発表会。
その際のゲスト講師が伊達ルネッサンス塾(通称伊達ルネ)の運営の女性2人だった。
伊達ルネは宮城県の南部にある、角田市、山元町、丸森町を中心に越谷チャレンジ塾と同様な内容の姉妹塾。塾長も同じく尾野寛明さん。
伊達ルネの2人の講演後、2つの班に別れて、今後について話し合う。
私は震災直後に現地へ行かなかったこともあり、伊達ルネの女性に、今被災地でできることはないかと尋ねてみた。
彼女は少し戸惑ったが、一言、
「来て下さい。」
これは何かの導きかなと思い、その場で行くことを決めた。
越谷チャレンジ塾のメンバーに、宮城へ行こうと、Facebookで声を掛けた。話に乗ってくれたのは越谷で葬儀屋さんとして独立したての荒井さん。
彼は一見すると、フットワークの軽さと軽い乗りでは葬儀屋さんを営んでいるとは思えないが、人として、持ち前の行動力と明るさでファンがたくさんいそうな感じがします。

2018.02.03の伊達ルネ発表会に赴いた。
交流会で近くの震災の象徴的な場所をいくつか教えて頂く。
観光地や食事処など、皆さん、快く教えて頂き、沢山の情報を入手できた。
現地の皆さんのご厚意もあり、このふたり旅は始まった。

プロローグ終わり。

◾︎その2
・津波の被害地1
亘理町の防潮堤

投稿するかどうか、迷う内容ですが、思い切って、アップします。
現地の方には不快な事もあるかと思いますが、ご容赦頂きたく。

伊達ルネ発表会の親睦会から明けて、2月4日朝。
亘理町にある「あら浜」という海産物がメインの食事処を教えて貰っていたので、10時ホテルチェックアウト後にあら浜へ向かう。
限定20食の海鮮丼と牡蠣飯を食べる。
埼玉という海なし県では味わえない産物を堪能した。
あら浜があるのは鳥の海という場所。
食事後、海に近いはずなので、海を見に行こうと車を走らせる。


ほんの数分で、高い土手に突き当たる。今まで見たことのないサイズの土手。両サイド見えなくなるまで延々と続く。


これが防潮堤だ。
防潮堤が作られているのは知っていた。車から覗いて見えると思っていた海が、車から全く見えないことに、ざわついた。


防潮堤に登る。
遠くまで防潮堤は続く。
津波前にはなかった防潮堤。
今は海と街がこの防潮堤で分断されている。


テトラポットに波が打ちつける度に怒号が響き、街側の静けさとは違っていた。
津波を防ぐにはこの防潮堤が必要なのかもしれない。


ただ別の答えはなかったのか、と。
こちら側とあちら。。
あの時からこれから。
以前の街のことは知らないが、変わり果てていることは明白だった。
僕らふたりは何も言えなかった。

◾︎その3
・丸森町齋理屋敷

防潮堤を見た後、丸森町の齋理屋敷を見学。
当地の名士であった齋藤氏の蔵を利用して、食器や農道具、甲冑など、様々な古物が展示されている。

メインで展示されていたのは季節柄、雛人形。
蚕小屋をリノベーションした展示スペースの中に、古い時代の雛人形がキレイに整列していた。
蔵は7棟あり、それぞれ異なったテーマで展示。


洋風の建物には昔の街並みが模型で再現されていた。


広い庭には雪が積もっていたことで、和風庭園の良い雰囲気が、より一層感じられる。

古い時代の物が観光地化されることで、人が集まることは地方創生の観点から見て、とても良いことだと思う。
近くにはカフェやパン屋さんなど、わりと新しいお店があった。

このようなシンボルとなり得る物があるということが、地方創生を為すための、まず大きな要素だと感じる。
シンボルがあることで、良い足掛かりになる。

越谷のシンボルはどこになるのか。
レイクタウンか?笑
地方創生のヒントを垣間見ることができた。

齋理屋敷の後には山元町の中浜小学校跡地へ向かう。

◾︎その4
・津波被災地2
山元町の中浜小学校跡地

投稿するかどうか、迷う内容ですが、思い切って、アップします。
現地の方には不快な事もあるかと思いますが、ご容赦頂きたく。

マイカーは小高い丘の隙間から下っていく。
広いスペースに出る。
おそらく田んぼだった地域であるが、この時期だから何も栽培していないのではなく、震災後、使えなくなった、というのが正しいだろう。
しばらく平地を進むとポツンと茶色い建物が見えてくる。
周りにはこの建物しかない。
あれか…。


中浜小学校だった。
鳥の海の近くの防潮堤を見た後であったが、中浜小学校跡地の少し先にも防潮堤が目に写っていた。


防潮堤は日本の大地を縁取るように、いつまでも続いている。

校舎の近くに着くと、すぐ横にいくつもの黄色いハンカチが青空の中になびいている。
円すい状に放射されたロープにハンカチがくくられている。


近くへ寄ると、慰霊碑であることが分かった。
黄色いハンカチには一枚一枚メッセージが書かれていた。
何が書いてあるか目で追おうとしたが、一瞬読み進めたところで、目を背けた。
一枚のハンカチに、ただいくつも、頑張ります、頑張ります、頑張ります…と、文字がいくつも目に入った。
僕にはそれ以上読み進めることができなかった。

たまたま持ち合わせていた線香を手向け、僕達はお祈りを捧げた。
慰霊碑に煙が登った。

校舎へ向かう。
重機がガーッ、ゴゴゴゴーッ、と響く。
日曜日なのに防潮堤の工事が進んでいる。
止まっている重機が数台ある中、二台だけ動いている。
有志の方が日曜出勤して早く工事を進めようと思っているのかもしれない。

校舎の中を覗くと、津波の凄まじさが容易に想像できた。


校庭の周りのフェンスが支柱根こそぎぶち切られ、ぐにゃりと曲がり、校舎の柱に巻きついている。

校舎をひと回りする。
教室内はおそらく震災後のまま。
いろいろな物がありえないことになっている。


時計台も根元から倒れる。
校舎の外壁に青いプレートを見つける。

「津波浸水害」ここまで。周囲を見渡すと、目に見える範囲はほとんど海に呑まれたことが想像できた。

改めて防潮堤を見た。
防潮堤は両サイドに広がっている。
どこまで続くのか。。

ここに、葬儀屋である荒井さんと宮城に来た意味が分かった気がした。

帰路につく。
伊達ルネで知り合った方の情報で福島第一原発の近くを通って帰ることにした。

◼︎その5
・福島第一原発

国道6号を南下する。
頭上に、時々通り過ぎる道路標識の文言は「東日本大震災津波浸水区間ここから」と「東日本大震災津波浸水区間ここまで」。
津波の到達地域に想いを馳せながら、夕方、日の落ちる山を見つつマイカーを走らせる。

国道6号が急に異国の地のような雰囲気に変わっていった。
交差点の信号は全て黄色の点滅、脇道に曲がれないように、道路にバリケードが渡されている。


店舗用駐車場、家の庭への出入口にもバリケード。
異国のゴーストタウンに迷い込んだかのように。
ただ、道は一本道。そのまま進む。

日が落ちた後のマジックアワーの中、それは見えた。
小さな山と山の間から、おそらく福島第一原発と思われる建物が一瞬見えた。
しばらく進むと、なぜか、信号機が青になったり、赤になったり。
通常の生きた信号機だった。
それは原発入口の交差点のためのものだった。
工事関係者が出入りする交差点での信号機。
僕らは、第一原発の近くまで行ってみることにした。
看板には、ようこそ福島第一原発の文字。僕には悲しく見えた。
1、2分進んだところで、見慣れない灯りが見える。
道路に仮設で置かれたプレハブから漏れる四角い灯り、検問だった。
現時点で検問があるのは当然だが、看板のようこそ、の文字と検問が、脳裏で交錯し、頭の中には不思議なはてなマークが残った。

国道へ戻る。
バリケードで塞がれた、ナビでは通過可能な交差点で、2人は高速道路の入口を探した。

原発の建物近くには行けなかったが、状況を実際にみることで、いろいろと考えた。
誰が、こんなことにしたのか。
地震か。
津波か。
こんなに広いエリアを今後、どうするのだろう。
農業を始めた僕にとっては、ここの農地も気になる。
漁業も。
漁業も海岸線の漁業権。
先祖代々に受け継がれてきた場所を。
放射線廃棄物の行き先はどんどん増えている。
原発とはなんだ?
この犠牲のもとに、僕の手元のスマホは毎日動いている。
この悲劇のもとに。

◾︎その6
・エピローグ

3.11の直後に行けなかったが、今行ったことに意味を感じた。
今ではボランティアの動きもなく、行政の中心地でない観光資源の乏しい地域には訪れる人が少ないだろう。
「宮城に来て下さい」と言われた瞬間に行こうと決めた判断は正しかった。
あの時ではなく、今、現地に行く事が、大事なのかもしれない。
気づいた時に。
時間は一方通行。未来へ進むことしかできない。複雑な想いを抱きながら、未来へ進むことしか。
改めて、今、被災地を見て欲しい。
広島へ行くのとは違うかもしれないが、それと同じかもしれない。
もう少しであの日の日付がくる。
それはあの日以前ではなく、あの日以降。
時は進むしかない。
何をもって復興したと言えるか分からないが、前に進むしかない。

越谷に戻り、僕達は男2人旅行最後の食事を楽しむ。
おいしい地元の蕎麦屋さんで。

お世話になった方々へ
ありがとうございました!